bikkuri_me_tobideru_man - コピー
今回の話題にぴったりなので いらすとやさんからお借りしました


西暦1592年の4月から文禄の役が始まります

5月初めに朝鮮国の首都を陥落させ、
引き続き小西行長軍が現在の北朝鮮の首都に進軍し、
加藤清正も同じく現在の北朝鮮の咸鏡道に
進撃していきました

夏になると明国にも属国の朝鮮国から
【倭賊】が攻めてきて首都も陥落し、
朝鮮王の宣祖も明国の国境まで落ち延びて
きていることが報告されています

そこで満州に駐留していた祖承君が率いる明軍の騎馬を
中心とした5000程の部隊が朝鮮入りします

この部隊は小西軍に大敗し、この敗報に明政府も
大いに驚き、ようやくただ事ではないと認識し始めます

明の兵部尚書の石星が、日本側と交渉のために
沈惟敬というものを登用します


朝鮮入りした沈はさっそく小西行長と交渉します


そこで小西と沈は、さらなる交渉の強化を約し
そのために日本軍はこれ以上北上しないことと
40日間の休戦協定を結びました

40日以降を経ても、明国の使者は到来しなかったものの
小西は律義にも進軍もせずに使者を待ち続けます


その間に、明国は朝鮮国への派遣軍を編成していますが
しかし、明国は腐敗政治等で疲弊していて、
さらに寧夏でモンゴルと戦争もしており、
軍の編成は上手くいっていっていませんでした


9月に寧夏の戦争が終結すると、
その軍の武将と軍隊の一部を転用し
さらに新たな軍を編成することができました

武将たちや将兵も実践経験も豊富の明国の精鋭でした

1592の12月から李如松率いる43500人の明軍が
東征軍として逐次、鴨緑江を渡河し、朝鮮国に入ります


沈は小西との交渉で、平壌の大同江を国境として策定すると
口約束ですが取り決めていました


これを知った李如松は沈を斬ろうとしますが、
参謀の李應試は、これをとどめて
沈を小西を騙すために利用しようと進言し、
この奸計が採用されます


平壌戦についての経緯は、このブログの過去を
参照してください

下の青い文字をクリック!

万歴の悲劇 大損害の明軍 グダグダな惨状


1593 battle of Pyongyang 小西軍の勇戦

平壌戦の後

平壌戦は世間にも殆ど知られていなく
日本のウキペディアにも
書かれていないので面白いと思います

またとくに一番上のは今回の内容にも
関連してくるので必読!!


さて、ここで今日の話題に突入します


平壌城戦で明軍は1285の首を得ますが、
しかし、この首の半数は日本人の首ではなく
朝鮮人の首でした(後で問題になります)


そして、城外をでた小西軍を追撃し
疲労困憊で半死半生の小西兵を打ち取り
359の首を得ます


そして、有名な蹄碧館の戦いで、
明軍は大敗します

ここで日本軍に与えた損害は120~600と
朝鮮側の記録に記されています


李如松は、この戦いにおいて得た首級のうち
半数は朝鮮人だったと朝鮮側にクレームをいれています
(朝鮮人が日本軍に味方しているという意味で)

秀吉軍と一緒に戦う朝鮮人の記録 要クリック

この大敗北で東征軍の活動はここで止まり
二度と攻勢にでることは叶わないのでした


1593年の5月に日本遠征軍と明の沈との間で
休戦協定が結ばれ、遠征軍は慶尚道の釜山まで
移動します


ここで11ヵ月間の文禄の役の戦いは終了しました


李如松の東征軍が朝鮮国入りして
平壌~碧蹄館の戦いで得ることが
できた首級は2000程でした対する明軍は14500~の兵を失い、
(祖承君の損害を含めるとそれ以上)
芳しくない戦いでした



日本と明の交渉期間中の1594年の6月の明代に
成立した記録に、東征軍が得た首級は
1600と認定されています



記録通りに見れば
こういう感じになるでしょうか↓↓


平壌城の戦いの戦果
1285(半数は朝鮮人の首)

追撃で359の首

平壌戦の朝鮮人の首を除いた戦果は
合計+1000

碧蹄館+600人(朝鮮人の首も多い)



李氏朝鮮の記録には、偽首問題や日本軍と
一緒に戦っていた朝鮮人のことが記されていますが、

明側の記録にも偽首問題のことが
記述されています


李朝実録の記録に、文禄の役休戦直後の
明将の発言に僅か2000首級しか
取れなかったというのがありますが、
さらに1年後の明側の記録では400減って
1600になっています


偽首問題の件のほかに、東征軍提督の李如松らは
敗戦糊塗のために虚偽の報告を明国や
監察官にしていたので色々と調査された結果でしょう


余談ですが、李如松に限らず文禄・慶長の役を通じて、
明軍の武将たちは多くの不正や虚偽報告をしています



初期の援軍の祖承君も含めて、東征軍は
実戦経験豊富な精鋭部隊で、鳴り物入りで
朝鮮国を救援に行きましたが、パッとしませんね


それだけ日本軍が強かった証でもありましょう

敗れた小西軍も、5倍~以上の兵力で
騙し討ちにされたものの明軍にかなりの損害を与えて、
これ以上の損害を嫌った李如松が
城を明け渡せば追撃はしないと勧告して、
小西は受諾して明軍は城を奪回できた有様でした

出典
フロイス日本史
李朝実録
明史
明史実録


↓クリックお願いします^^

人気ブログランキング