文禄2年(1593) 11月03日に、
加藤清正軍と明軍、朝鮮軍が合戦をしています
この時期は、小西行長と明の沈遊撃との間で
明側が2名の人質をだして日本に赴いて
和平を乞うという形で協定が結ばれたので、
日本軍は釜山周辺に集結していました

加藤清正軍と明軍、朝鮮軍が合戦をしています
この時期は、小西行長と明の沈遊撃との間で
明側が2名の人質をだして日本に赴いて
和平を乞うという形で協定が結ばれたので、
日本軍は釜山周辺に集結していました

ちなみに小西行長と加藤清正は
それぞれで明・李氏朝鮮と交渉をしており、
朝鮮側も両人に役人を派遣してやりとりをしています
まだ交渉の決着がついていない時期に、
清正は攻勢にでます
これは清正記や朝鮮征伐記、
朝鮮のキリシタン小西行長の陣営にいた
キリスト教宣教師グレゴリーオ・デ・セスペデスの書簡にも
記載されています
ここでは朝鮮側の記録で、
どのように記されているか見てみましょう
文禄2年 11月02日
02日、数百に満たない加藤清正が蔚山を出撃し、
軍を3路に分けて長驅(長駆)安康を目指し、
03日に安康を焼いた、府内の民衆は四散した
慶州には有兵使高彦伯、別將權應銖、府尹朴毅長、
助防將洪季男、李守一らがいたが、
誰一人、兵を置かず、偵察するものもいないので、
来襲を告げるものがいなかった
洪季男と兵70余名が狼狽しながら安康に
やってきただけであった
明の劉総兵を応接していた接伴使徐渻は、
接伴官李時發と巡察使韓孝純から
日本軍襲来の報告を相次いで受けると、
劉総兵に援軍を乞い、明軍は北兵と南兵2000名を
出すことに決定したが、これだけでは足りないと判断し、
防禦使金應瑞と李思命にも、配下の兵から精兵を選抜し
出動するようにとの伝令を送った
しかし、明の吳惟忠と駱尚志は、敵には適わないと、
城に籠って戦うことはしなかった
馬千総が呉、駱尙志の両将の陣営を行き来し説得して、
日の出に明軍は出撃したが敵はいなかった
山間に伏兵を置くための陣を設けようとしたが、
先に敵の伏兵がいた
明軍は砲を放つと敵は少し退いた
明兵は羊皮の長衣を着ていたのでよく走れずにいたところを、
日本兵10-20名が刀を振るい突進してきた
明兵は、後ろも振り返らず逃走したが、
敵は吶喊しながら追いつき、明兵は麻の如く殺傷され、
また水に落ちて死ぬ者も多く、明兵の死傷者は数百に至った
明兵70余人が虜にされていたが、
洪季男が敵を数人射たので救出できた
おわり。
また慶州安康県の北東20キロほどの迎日も、
日本軍に攻撃され、ここでも明軍は200余の損害を
出しています
慶州安康付近の明軍の戦死者は、200-220余
負傷者も明将の言葉として、
「慶州の敗北、明兵の被傷多く、心を痛めている」
とあり痛恨の敗北であったようです
この少数の清正軍に押しまくられたのは、
呉惟忠率いる部隊で、その兵はすべて剣閣の精兵と
謳われていたので尚更だったと思います
安康と迎日で400-420の損害、
さらに安康の負傷兵も多いとあるので、
500以上の損害は確実でしょう
この加藤清正軍の襲撃で、
李氏朝鮮は、以下のような結論を出しています
安康、迎日、長鬐が攻撃され、焼き払われ、民も死に、
軍料を奪われ、多数の両班も捕虜にされた
敵が深く侵入しているのに探知できず、
我兵は狼狽するだけで、一人の敵も捕まえることが
できなかった
そして朝鮮の武官たちの怠惰な面も批判しています
諸将は要害の地に隠れたり避けることを良しとし、
敵に当たるものがいない
1、2名の敵がいたら首を取ろうとはするが、
数百の敵なら避けようとする
また敵が去った後は敵勢に関して嘘の報告をする、
この種々の罪状は言葉にし難い
明軍に関しても、1000の兵が数百に満たない
日本軍に対抗できなかったと嘆いています
また明の総兵李如松は罰として呉惟忠らを免職し、
故郷の浙江に帰らせるようにしますが、
配下の明将が李を説得したので、
罰を免れることになりました
こう見ると李氏朝鮮政府中枢の官僚たちは、
物事を冷静かつ的確に分析しているように
映るかもしれませんが、彼ら自身も党派争いに明け暮れたり、
名分論にのみ終始したり、実情を把握できず頓珍漢な指示を
だしたりと人の事は偉そうにいえないことをやっています
李朝が建国してから200年の節目に、
文禄の役が起きましたが、
政道は乱れ、天災が起こり、役人の収奪、
大乱もなかったために軍の弛緩、
このような状態で、李朝政権は戦争指導を行っていました
これでは長い戦国の世で鍛えられ、失敗や齟齬があっても
すぐに修正・対応策をとって明軍・朝鮮軍に挑んできた
「倭軍」に適わないのは当然でした
以前に書きましたが、朝鮮に降った秀吉兵、
いわゆる降倭の呂汝文という日本人が、
朝鮮の対日本軍の防衛策を進言しますが、
その最後に、
【朝鮮人は口数だけは多く実行力が
伴っていないから早急に対応するように】
と忠告をしているのが象徴的です
戦国の世で生きてきた呂汝文にとっては、
もどかしい限りだったことでしょう
宣祖実録1593
11月12日
11月18日
11月19日
11月21日
11月23日
11月02日 閏
11月03日 閏
宣祖実録1597
01月16日

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それぞれで明・李氏朝鮮と交渉をしており、
朝鮮側も両人に役人を派遣してやりとりをしています
まだ交渉の決着がついていない時期に、
清正は攻勢にでます
これは清正記や朝鮮征伐記、
朝鮮のキリシタン小西行長の陣営にいた
キリスト教宣教師グレゴリーオ・デ・セスペデスの書簡にも
記載されています
ここでは朝鮮側の記録で、
どのように記されているか見てみましょう
文禄2年 11月02日
02日、数百に満たない加藤清正が蔚山を出撃し、
軍を3路に分けて長驅(長駆)安康を目指し、
03日に安康を焼いた、府内の民衆は四散した
慶州には有兵使高彦伯、別將權應銖、府尹朴毅長、
助防將洪季男、李守一らがいたが、
誰一人、兵を置かず、偵察するものもいないので、
来襲を告げるものがいなかった
洪季男と兵70余名が狼狽しながら安康に
やってきただけであった
明の劉総兵を応接していた接伴使徐渻は、
接伴官李時發と巡察使韓孝純から
日本軍襲来の報告を相次いで受けると、
劉総兵に援軍を乞い、明軍は北兵と南兵2000名を
出すことに決定したが、これだけでは足りないと判断し、
防禦使金應瑞と李思命にも、配下の兵から精兵を選抜し
出動するようにとの伝令を送った
しかし、明の吳惟忠と駱尚志は、敵には適わないと、
城に籠って戦うことはしなかった
馬千総が呉、駱尙志の両将の陣営を行き来し説得して、
日の出に明軍は出撃したが敵はいなかった
山間に伏兵を置くための陣を設けようとしたが、
先に敵の伏兵がいた
明軍は砲を放つと敵は少し退いた
明兵は羊皮の長衣を着ていたのでよく走れずにいたところを、
日本兵10-20名が刀を振るい突進してきた
明兵は、後ろも振り返らず逃走したが、
敵は吶喊しながら追いつき、明兵は麻の如く殺傷され、
また水に落ちて死ぬ者も多く、明兵の死傷者は数百に至った
明兵70余人が虜にされていたが、
洪季男が敵を数人射たので救出できた
おわり。
また慶州安康県の北東20キロほどの迎日も、
日本軍に攻撃され、ここでも明軍は200余の損害を
出しています
慶州安康付近の明軍の戦死者は、200-220余
負傷者も明将の言葉として、
「慶州の敗北、明兵の被傷多く、心を痛めている」
とあり痛恨の敗北であったようです
この少数の清正軍に押しまくられたのは、
呉惟忠率いる部隊で、その兵はすべて剣閣の精兵と
謳われていたので尚更だったと思います
安康と迎日で400-420の損害、
さらに安康の負傷兵も多いとあるので、
500以上の損害は確実でしょう
この加藤清正軍の襲撃で、
李氏朝鮮は、以下のような結論を出しています
安康、迎日、長鬐が攻撃され、焼き払われ、民も死に、
軍料を奪われ、多数の両班も捕虜にされた
敵が深く侵入しているのに探知できず、
我兵は狼狽するだけで、一人の敵も捕まえることが
できなかった
そして朝鮮の武官たちの怠惰な面も批判しています
諸将は要害の地に隠れたり避けることを良しとし、
敵に当たるものがいない
1、2名の敵がいたら首を取ろうとはするが、
数百の敵なら避けようとする
また敵が去った後は敵勢に関して嘘の報告をする、
この種々の罪状は言葉にし難い
明軍に関しても、1000の兵が数百に満たない
日本軍に対抗できなかったと嘆いています
また明の総兵李如松は罰として呉惟忠らを免職し、
故郷の浙江に帰らせるようにしますが、
配下の明将が李を説得したので、
罰を免れることになりました
こう見ると李氏朝鮮政府中枢の官僚たちは、
物事を冷静かつ的確に分析しているように
映るかもしれませんが、彼ら自身も党派争いに明け暮れたり、
名分論にのみ終始したり、実情を把握できず頓珍漢な指示を
だしたりと人の事は偉そうにいえないことをやっています
李朝が建国してから200年の節目に、
文禄の役が起きましたが、
政道は乱れ、天災が起こり、役人の収奪、
大乱もなかったために軍の弛緩、
このような状態で、李朝政権は戦争指導を行っていました
これでは長い戦国の世で鍛えられ、失敗や齟齬があっても
すぐに修正・対応策をとって明軍・朝鮮軍に挑んできた
「倭軍」に適わないのは当然でした
以前に書きましたが、朝鮮に降った秀吉兵、
いわゆる降倭の呂汝文という日本人が、
朝鮮の対日本軍の防衛策を進言しますが、
その最後に、
【朝鮮人は口数だけは多く実行力が
伴っていないから早急に対応するように】
と忠告をしているのが象徴的です
戦国の世で生きてきた呂汝文にとっては、
もどかしい限りだったことでしょう
宣祖実録1593
11月12日
11月18日
11月19日
11月21日
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11月03日 閏
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