さて今回は、停戦・交渉期間中の
慶長2年の3月8日 (1597 0308 )に
起きた出来事を紹介します
宣祖30年 3月24日 甲寅
3月19日 都元帥權慄の書状
3月 8日 全羅道右水使の李億祺の報告で、
秀吉軍の大中小の3隻の舟が巨濟(巨済島)の器問浦に
停泊し上陸したのがわかった
統制使元均は水軍を率い、夜を徹して急行
9日早朝に器問浦に到り、停泊中の日本船3隻を発見、
日本人は殆ど上陸し山の間で炊爨していた
岸には3、4名の倭人が抜き身の刀を持って立っていた
元均は降倭の南汝文らを使者として送り、
利害を説き誘うと隠れていた日本人20人余りがでてきた
南汝文が日本の指揮者を誘説していると、
さらに隠れていた日本人がでてきて、その数80余名となった
(倭人は)朝鮮の水軍の威容を見て、
攻撃を受けるのではと疑い、生き延びたいと思った
倭将は7名を従え、統制使の船に乗ってきた
元均は酒を振舞い、船に乗り立ち去ってもよいと許すと、
日本人たちは喜び、ひれ伏して礼を述べた
日本人たちが2隻の船に戻り、沖に出て帆を掛けている最中に、
元均は指旗をあげ角笛をならし地字銃筒を発砲した、
配下の船も争って攻撃を仕掛けた
固城の縣令の趙凝道の船は先駆けて突っ込むと、
日本人20名が逆襲してきて船に乗りこまれ、
趙凝道及び射夫(弓兵) と格軍(水夫)の多くは斬られ、
又、海に落ちた者は他船に引き上げられ
生き延びたものが多かった
趙凝道は刀に切られ海に落ち、
安骨浦萬戶の禹壽の船に引き上げられたがまもなく死んだ
敵は趙凝道の船で北の方向に走ったが、
諸船が包囲し、玄字銃筒や矢を連発し、
臨淄僉使の洪堅と興德縣監の李容濟に命じ、
唐火箭と松炬(たいまつ)で船に放火した
日本人たちは船から降り、泳ぎながら陸地を目指したが、
これを射殺し、死体を引き上げ斬首し、合わせて18級を得た
以上です
宣祖30年 3月 18日の記録にも、
慶尚監司の李用淳が送った書状に、3月9日に固城の板屋船が
140名を載せて出撃して、助羅浦の境の古多浦で
日本と戦い、全船が敗け、指揮官の県令(趙凝道)も
死んだと記されています
朝鮮水軍の参加兵力は、記録を見る限り
以下と推測されます
三道水軍統制使 元均
全羅道右水使 李億祺
骨浦萬戸 禹壽
固城縣令 趙凝道
巨濟縣令 安衛
令臨淄僉 使洪堅
興德縣監 李容濟
それぞれの将の階級から察するに、
戦闘艦である板屋船7艘、人員も770人~980人で
日本側に対して圧倒的な戦力で挑みました
とはいえ酒を振舞って日本人を許して油断した時に、
攻撃を仕掛けたものの、少数の日本人に反撃を
受け船一艘を奪われました
少々、情けないですが首は獲ったので、
埋め合わせはできているでしょう
同記録にも統制使元均の軍功と、
趙凝道及び戦死した者たちのことを
詳細に調べたのち、死後の表彰の話も出ています
宣祖30年 3月25日 乙卯 鄭光績の発言
統制使元均は、受命後、すぐに武勇を発揮し、
【敵船3艘を捕獲し、47の首を献上しており、とても感心なことで
元均と他に功を立てた者に直ぐに賞するべき】
とあり、この戦果に朝鮮政府も喜んでいる様子が伝わります
しかし、記録を読み進めていると段々と
様子が怪しくなってきます
備邊司が啓した記録に、
元均が献上した首は、材木を伐りに
往来していた日本人であり、なにも人を殺害するために
やってきた日本人ではないことが報告されています
しかし、諸将が奮戦して首を得た功が
喜ばしいことは確かなもの。
とは言うものの論賞の命令は重大事なので、
臣が軽々しく議論できないと
悩ませています
この報告を受けた朝鮮王の宣祖は
これらは樵(きこり)の日本人とはいい難く、
ハッキリしない非常の日本人であると言います
そして元均には、加資あるいは銀の恩賞を
下すことを任しますが、但し、意義のあることだから事前に
必ず兵器の検査行って、兵器を献上させてから參酌の
施行するように命じています
個人的な推測ですが、兵器の件は、宣祖もさすがに、
疑いを持ったために確認の意味と
無言の訓戒を込めたのではないかと思います
そして、この件の真相を暴く使者がやってくることになります
宣祖30年 3月25日
3月22日 成貼慶尙右兵使 金應瑞の書状
今月19日に、金海島駐屯の倭將豊茂守が
3人の配下を送ってきた
通問(通訳)曰く「我が軍の32名が船一艘にて
木の伐採のため、巨済の玉浦の境に停泊中、
朝鮮の水軍に誘きだされて密かに殺害されて
誰一人帰還しなかった
使いを送り、その仕儀を探らせたところ、
その朝鮮水軍の諸将はみな「右兵使の指揮で捕えて斬った」と
言っている
略
23日 小西行長の配下の要時羅が、
行長と宗調信の書簡を持参してきて曰く
「略
(小西)平行長軍の15名は小舟に乗って木の伐採のために
巨済島を往復していたが(14日か)朝鮮の水軍と遭遇し、
誘われてみると同船の15名は鉄砲と剣を
奪われ捕えられた
斬られる間際に、一人の日本人が
「我らは攻撃にきた倭ではない
平行長配下の要時羅の日本人なり、公文も所持して来ている」
これを聞いた朝鮮の一将曰く
「これが本当なら(明国の)沈遊撃が使者として
南方(釜山周辺)に滞在中に修好時は軽々しく殺するなと禁じた、
ゆえに行長の配下もまた殺すべからず」
この日本人は縛を解かれ、解放されて釜山に帰り着き、
ことの次第を詳細に伝えた」
こうして行長は我(要時羅)を使者とし、
朝鮮水軍が隠れているところに向かい、
事情を詳しく訪ね、鉄砲と剣を回収し、15名も船に乗船できた
以上
慶尚右兵使の金應瑞の報告で
事の真相が明らかになってしまいました
この時期、巨済島での木の伐採は問題はないと
日本側と朝鮮側で条約が結ばれていました
朝鮮水軍は、これを無視した行為になります
捕まった行長配下の者たちは、要時羅と帰陣の途上、
公文を持たないで朝鮮水軍に遭遇したら射殺されてしまうので、
標文を発行してほしいと要請します
要時羅もこれを受けて、朝鮮国の官位も持っている彼は、
朝鮮國僉知中樞府事要時羅の通達として
伐採のときは朝鮮側に知らせることをしますが、
朝鮮水軍はまたも無視し、今度は五島の船1艘、
水人15名が行方不明になります
冒頭の戦闘報告書では、
日本船3艘と日本人80余人とありましたが、
豊茂守の苦情から判明しているのは、
送り出した船は1艘のみで人員は32人でした。
朝鮮水軍の元均らは、日本側の兵力を
誇張していたことがわかります
そして行方不明となった五島の船1艘、水人15名
この両方を合わせると、
元均が献上した首級47個と一致します
この一連の事件で、朝鮮水軍に捕えられた船は2隻 47名
豊茂守 3月09日 1隻 32名
小西行長3月14日?1隻 15名
豐臣調信が3月15日に送った抗議文では、
金海陣中大船一隻, 三十二名
我陣中五島船一隻, 十五名
とあり、戦闘行動でないことがわかります
いずれも木の伐採のために往来の途中でした
さすがに朝鮮の官僚の中にも、これら水軍諸将の行動を、
日本側が本事件で朝鮮側に送った書状の中の
【(元均らの)大局観のない目先の小利に走る行為】
という文句を引用して暗に批判しています

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慶長2年の3月8日 (1597 0308 )に
起きた出来事を紹介します
宣祖30年 3月24日 甲寅
3月19日 都元帥權慄の書状
3月 8日 全羅道右水使の李億祺の報告で、
秀吉軍の大中小の3隻の舟が巨濟(巨済島)の器問浦に
停泊し上陸したのがわかった
統制使元均は水軍を率い、夜を徹して急行
9日早朝に器問浦に到り、停泊中の日本船3隻を発見、
日本人は殆ど上陸し山の間で炊爨していた
岸には3、4名の倭人が抜き身の刀を持って立っていた
元均は降倭の南汝文らを使者として送り、
利害を説き誘うと隠れていた日本人20人余りがでてきた
南汝文が日本の指揮者を誘説していると、
さらに隠れていた日本人がでてきて、その数80余名となった
(倭人は)朝鮮の水軍の威容を見て、
攻撃を受けるのではと疑い、生き延びたいと思った
倭将は7名を従え、統制使の船に乗ってきた
元均は酒を振舞い、船に乗り立ち去ってもよいと許すと、
日本人たちは喜び、ひれ伏して礼を述べた
日本人たちが2隻の船に戻り、沖に出て帆を掛けている最中に、
元均は指旗をあげ角笛をならし地字銃筒を発砲した、
配下の船も争って攻撃を仕掛けた
固城の縣令の趙凝道の船は先駆けて突っ込むと、
日本人20名が逆襲してきて船に乗りこまれ、
趙凝道及び射夫(弓兵) と格軍(水夫)の多くは斬られ、
又、海に落ちた者は他船に引き上げられ
生き延びたものが多かった
趙凝道は刀に切られ海に落ち、
安骨浦萬戶の禹壽の船に引き上げられたがまもなく死んだ
敵は趙凝道の船で北の方向に走ったが、
諸船が包囲し、玄字銃筒や矢を連発し、
臨淄僉使の洪堅と興德縣監の李容濟に命じ、
唐火箭と松炬(たいまつ)で船に放火した
日本人たちは船から降り、泳ぎながら陸地を目指したが、
これを射殺し、死体を引き上げ斬首し、合わせて18級を得た
以上です
宣祖30年 3月 18日の記録にも、
慶尚監司の李用淳が送った書状に、3月9日に固城の板屋船が
140名を載せて出撃して、助羅浦の境の古多浦で
日本と戦い、全船が敗け、指揮官の県令(趙凝道)も
死んだと記されています
朝鮮水軍の参加兵力は、記録を見る限り
以下と推測されます
三道水軍統制使 元均
全羅道右水使 李億祺
骨浦萬戸 禹壽
固城縣令 趙凝道
巨濟縣令 安衛
令臨淄僉 使洪堅
興德縣監 李容濟
それぞれの将の階級から察するに、
戦闘艦である板屋船7艘、人員も770人~980人で
日本側に対して圧倒的な戦力で挑みました
とはいえ酒を振舞って日本人を許して油断した時に、
攻撃を仕掛けたものの、少数の日本人に反撃を
受け船一艘を奪われました
少々、情けないですが首は獲ったので、
埋め合わせはできているでしょう
同記録にも統制使元均の軍功と、
趙凝道及び戦死した者たちのことを
詳細に調べたのち、死後の表彰の話も出ています
宣祖30年 3月25日 乙卯 鄭光績の発言
統制使元均は、受命後、すぐに武勇を発揮し、
【敵船3艘を捕獲し、47の首を献上しており、とても感心なことで
元均と他に功を立てた者に直ぐに賞するべき】
とあり、この戦果に朝鮮政府も喜んでいる様子が伝わります
しかし、記録を読み進めていると段々と
様子が怪しくなってきます
備邊司が啓した記録に、
元均が献上した首は、材木を伐りに
往来していた日本人であり、なにも人を殺害するために
やってきた日本人ではないことが報告されています
しかし、諸将が奮戦して首を得た功が
喜ばしいことは確かなもの。
とは言うものの論賞の命令は重大事なので、
臣が軽々しく議論できないと
悩ませています
この報告を受けた朝鮮王の宣祖は
これらは樵(きこり)の日本人とはいい難く、
ハッキリしない非常の日本人であると言います
そして元均には、加資あるいは銀の恩賞を
下すことを任しますが、但し、意義のあることだから事前に
必ず兵器の検査行って、兵器を献上させてから參酌の
施行するように命じています
個人的な推測ですが、兵器の件は、宣祖もさすがに、
疑いを持ったために確認の意味と
無言の訓戒を込めたのではないかと思います
そして、この件の真相を暴く使者がやってくることになります
宣祖30年 3月25日
3月22日 成貼慶尙右兵使 金應瑞の書状
今月19日に、金海島駐屯の倭將豊茂守が
3人の配下を送ってきた
通問(通訳)曰く「我が軍の32名が船一艘にて
木の伐採のため、巨済の玉浦の境に停泊中、
朝鮮の水軍に誘きだされて密かに殺害されて
誰一人帰還しなかった
使いを送り、その仕儀を探らせたところ、
その朝鮮水軍の諸将はみな「右兵使の指揮で捕えて斬った」と
言っている
略
23日 小西行長の配下の要時羅が、
行長と宗調信の書簡を持参してきて曰く
「略
(小西)平行長軍の15名は小舟に乗って木の伐採のために
巨済島を往復していたが(14日か)朝鮮の水軍と遭遇し、
誘われてみると同船の15名は鉄砲と剣を
奪われ捕えられた
斬られる間際に、一人の日本人が
「我らは攻撃にきた倭ではない
平行長配下の要時羅の日本人なり、公文も所持して来ている」
これを聞いた朝鮮の一将曰く
「これが本当なら(明国の)沈遊撃が使者として
南方(釜山周辺)に滞在中に修好時は軽々しく殺するなと禁じた、
ゆえに行長の配下もまた殺すべからず」
この日本人は縛を解かれ、解放されて釜山に帰り着き、
ことの次第を詳細に伝えた」
こうして行長は我(要時羅)を使者とし、
朝鮮水軍が隠れているところに向かい、
事情を詳しく訪ね、鉄砲と剣を回収し、15名も船に乗船できた
以上
慶尚右兵使の金應瑞の報告で
事の真相が明らかになってしまいました
この時期、巨済島での木の伐採は問題はないと
日本側と朝鮮側で条約が結ばれていました
朝鮮水軍は、これを無視した行為になります
捕まった行長配下の者たちは、要時羅と帰陣の途上、
公文を持たないで朝鮮水軍に遭遇したら射殺されてしまうので、
標文を発行してほしいと要請します
要時羅もこれを受けて、朝鮮国の官位も持っている彼は、
朝鮮國僉知中樞府事要時羅の通達として
伐採のときは朝鮮側に知らせることをしますが、
朝鮮水軍はまたも無視し、今度は五島の船1艘、
水人15名が行方不明になります
冒頭の戦闘報告書では、
日本船3艘と日本人80余人とありましたが、
豊茂守の苦情から判明しているのは、
送り出した船は1艘のみで人員は32人でした。
朝鮮水軍の元均らは、日本側の兵力を
誇張していたことがわかります
そして行方不明となった五島の船1艘、水人15名
この両方を合わせると、
元均が献上した首級47個と一致します
この一連の事件で、朝鮮水軍に捕えられた船は2隻 47名
豊茂守 3月09日 1隻 32名
小西行長3月14日?1隻 15名
豐臣調信が3月15日に送った抗議文では、
金海陣中大船一隻, 三十二名
我陣中五島船一隻, 十五名
とあり、戦闘行動でないことがわかります
いずれも木の伐採のために往来の途中でした
さすがに朝鮮の官僚の中にも、これら水軍諸将の行動を、
日本側が本事件で朝鮮側に送った書状の中の
【(元均らの)大局観のない目先の小利に走る行為】
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