慶長三年、切支丹武将、小西行長以下13000人余の
居城である順天城を攻め落とすために、
明軍の劉綎は5万以上の兵を率いて、
接近するものの順天は海辺に面し、
攻略が難しいと思案した劉挺は小西行長を
騙して誘き出して生け捕ろうと企みます
居城である順天城を攻め落とすために、
明軍の劉綎は5万以上の兵を率いて、
接近するものの順天は海辺に面し、
攻略が難しいと思案した劉挺は小西行長を
騙して誘き出して生け捕ろうと企みます
呉宗道を問使として順天に遣わして、
行長を説き伏せます
初めは行長も疑うものの明国の通事(通訳)の度重なる往来と
劉綎が単身で迎えに来る素振りを見せていたので、
行長はこれを信じ込んでしまい、
日時を定め会見の場に出立します
しかし、日本人で明軍の陣に駆け入り、
總の官に任官している者が、
劉綎の謀略を知るや、小西行長のもとへ、
馳せ参じ謀を伝えたので行長は難を免れることができました
両朝平攘録 (明・中国)
朝鮮征伐記 (日本)
宇都宮高麗歸陣物語にも明・朝鮮側が
小西行長を誘い出すための書を
寄越してきたのが確認できます
慶長二年末から慶長三年明けに行われた
第一次蔚山城の戦いに置いても、
苦戦を続ける明軍は、蔚山城を守る加藤清正達と
交渉するために、使者を派遣しますが、
その使者に降倭の【越後】という人物がいたということが
李朝実録(宣祖実録)に記されています
この戦いに参加した大河内茂左衛門尉秀元が
残した記録にも、唐軍(明)の使者として、
日本人【岡本越後守】が来たことが記されています
岡本越後守は、明側が偽りの和平交渉を画策し、
会見の場に加藤清正たちを、おびき寄せて
捕える魂胆であることを察知すると、密かに蔚山城に馳せ参じ、
明側の謀略を日本の諸将に伝えます
これを聞いた武将たちは、越後の忠節を讃え、
太刀や馬の褒美に相当する功績だったものの、
何分、隠密の事なので持参もできなかったようです
越後は、今回の注進と境遇についてこう述べています
この城をみれば清正の御旗あり、
自分は清正公に御不審を蒙り、遠国(明)に奔ったものの、
君臣の義は忘れがたく、また自身偽る所の悪名を受けるのも
無念なので、後難を顧みず忠節申す候
岡本越後は明に対しても厚く恩義を感じていたようで、
彼は明国の道使(通訳)を任され、さらに騎士八千の将にも
任命され、その恩は山よりも深く、海よりも深く、
骨を粉にして、身を亡ぼしても報いるに
足りないくらいだと述べています
大河内の上役の飛騨守一吉は、岡本越後に報いるために、
現在、越後の妻子は熊本に居ることや、
そして自分たちが戦で生き残ったら、
嫡子を越後守に受領、本知千石から三千石に加増、
娘は主計頭(清正)の娘にとする
もし主計頭が同意しないのであれば、
公方に言上して、嫡子は上(大坂)に出仕させ、
娘は自分の居城、豊洲臼杵に呼び、
自身の娘とすると約束します
岡本越後は、是を聞くと歓喜の涙を流して述べます
明州(明国)にわたり、向こうの人間になり、
そしてこの戦場にきたが、故郷の妻子は忘れたこともない
山海万里も隔て、生死の有様も知れず、
日夜、明けても暮れても悲しく、夢より外に
相見ることも叶わなかったが、飛騨守一吉公の有難い言葉、
この事が明軍に漏れ聞こえて、車裂きの大難が
あったとしても本望なりと述べ、
手を合わせて泣きながら本陣に帰りました
小西行長は、文禄の時も、明の使者との約束を信じ込んで、
平壌城が明軍の騙し討ちに遭っています
さすがに、慶長の役のときは、平壌で騙し討ちされた
経験があったので、行長指揮下のキリシタン大名も、
以前に騙されたように今回も罠に違いないと、
行長を諌めています

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行長を説き伏せます
初めは行長も疑うものの明国の通事(通訳)の度重なる往来と
劉綎が単身で迎えに来る素振りを見せていたので、
行長はこれを信じ込んでしまい、
日時を定め会見の場に出立します
しかし、日本人で明軍の陣に駆け入り、
總の官に任官している者が、
劉綎の謀略を知るや、小西行長のもとへ、
馳せ参じ謀を伝えたので行長は難を免れることができました
両朝平攘録 (明・中国)
朝鮮征伐記 (日本)
宇都宮高麗歸陣物語にも明・朝鮮側が
小西行長を誘い出すための書を
寄越してきたのが確認できます
慶長二年末から慶長三年明けに行われた
第一次蔚山城の戦いに置いても、
苦戦を続ける明軍は、蔚山城を守る加藤清正達と
交渉するために、使者を派遣しますが、
その使者に降倭の【越後】という人物がいたということが
李朝実録(宣祖実録)に記されています
この戦いに参加した大河内茂左衛門尉秀元が
残した記録にも、唐軍(明)の使者として、
日本人【岡本越後守】が来たことが記されています
岡本越後守は、明側が偽りの和平交渉を画策し、
会見の場に加藤清正たちを、おびき寄せて
捕える魂胆であることを察知すると、密かに蔚山城に馳せ参じ、
明側の謀略を日本の諸将に伝えます
これを聞いた武将たちは、越後の忠節を讃え、
太刀や馬の褒美に相当する功績だったものの、
何分、隠密の事なので持参もできなかったようです
越後は、今回の注進と境遇についてこう述べています
この城をみれば清正の御旗あり、
自分は清正公に御不審を蒙り、遠国(明)に奔ったものの、
君臣の義は忘れがたく、また自身偽る所の悪名を受けるのも
無念なので、後難を顧みず忠節申す候
岡本越後は明に対しても厚く恩義を感じていたようで、
彼は明国の道使(通訳)を任され、さらに騎士八千の将にも
任命され、その恩は山よりも深く、海よりも深く、
骨を粉にして、身を亡ぼしても報いるに
足りないくらいだと述べています
大河内の上役の飛騨守一吉は、岡本越後に報いるために、
現在、越後の妻子は熊本に居ることや、
そして自分たちが戦で生き残ったら、
嫡子を越後守に受領、本知千石から三千石に加増、
娘は主計頭(清正)の娘にとする
もし主計頭が同意しないのであれば、
公方に言上して、嫡子は上(大坂)に出仕させ、
娘は自分の居城、豊洲臼杵に呼び、
自身の娘とすると約束します
岡本越後は、是を聞くと歓喜の涙を流して述べます
明州(明国)にわたり、向こうの人間になり、
そしてこの戦場にきたが、故郷の妻子は忘れたこともない
山海万里も隔て、生死の有様も知れず、
日夜、明けても暮れても悲しく、夢より外に
相見ることも叶わなかったが、飛騨守一吉公の有難い言葉、
この事が明軍に漏れ聞こえて、車裂きの大難が
あったとしても本望なりと述べ、
手を合わせて泣きながら本陣に帰りました
小西行長は、文禄の時も、明の使者との約束を信じ込んで、
平壌城が明軍の騙し討ちに遭っています
さすがに、慶長の役のときは、平壌で騙し討ちされた
経験があったので、行長指揮下のキリシタン大名も、
以前に騙されたように今回も罠に違いないと、
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