天正20年(文禄元年・1592年)の3月~4月に、
日本を平定した豊臣秀吉が、大規模な海外遠征、
すなわち明国を征討を目指した 【唐入り】 が始まります

その際に、明国討伐の途上にある李氏朝鮮国は、
明国の属国であったことから秀吉軍と戦いになります

精鋭の日本軍は各地で李氏朝鮮軍を撃破し、
多くの朝鮮人も味方し、
5月初に漢城(漢陽・ソウル)を陥落させます

漢城に一番乗りした小西行長はキリシタンでした

行長の下に属していた肥前国の(長崎県)大名たちや将兵も、
キリシタンが多くおり、イエズス会の宣教師の
ルイス・フロイスは、彼らから聞いた証言を
記録に残しています

フロイスの日本史 秀吉と文禄の役 
から見てみましょう。 

「 (都)には消失を免れた国王の他の宮殿があり、
そこに行くまでに、ごくわずかではあったが(高麗人)の抵抗に
出くわした

アゴスティーニュ(小西行長)は、町の(城)門が閉ざされており、
それは鉄でできていて、そこからは入れなかったので、
兵士たちとともに城壁を乗り越えて入城した

これらの多くの兵士たち、しかも武装した
異様な集団の中にありながら、
(高麗の)老幼婦女子たちに対する(日本側の)安全保障(態勢)には
見るべきものがあったと言われる

彼ら(高麗人)は何の恐怖も不安も感じずに、
自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、
手真似で何か必要なものはないかと訊ねる有様で、
日本人のほうが面喰らっていた」


次は李氏朝鮮の記録を見てみましょう


1592-1593 

0413(5月以降の記録) (宣祖修正実録 )

都城(都)の士族は遠くに逃げており、
市民、賤民も近隣に逃げていた

しかし、倭人が榜(立札など)をかけて招集したので、
少しづつ還ってきて坊市(各区画)が皆満る

城門は賊が守り、帶に賊帖(証明書)を
携帯していないものは者は通行できない
ゆえに我民は皆、賊から帖を受けている

惡少、無賴者はすべて賊に付き、
道案内などをして悪事を働く者が甚だ多い

倭人は法に厳しく、通報も推奨しており、姦民は受賞している

噂話や流言を流すものや異色の者は、皆燒殺を免れない

東門の外には骸骨が丘のように積まれている。

前工曹參議の成世寧の妓女の妾には、養女がおり、
倭将(日本武将)の寵愛を受けていた

世寧と弟世康は皆年老で楊州の山中に避難していたが、
その女の縁を頼りに、自宅に帰り以前のように寛ぎ、
倭人も丁寧に出迎える準備をしていた

文官で敵に付いたものは世寧だけであった


1593 0130
都の朝鮮人の若者たちは髪を剃っている
老人たちは、すべて殺されている



1593 1002 
(この時期は日本国と明国の間で休戦し、
漢城は李氏朝鮮に支配下に戻っていた )

都の下層民は、久しく日本軍の下にいたので、
倭語(日本語)に染まっていないはずはない

各地に榜(立札)を掛けて禁止するべし
倭語を使用するものは、各里中で厳しく裁くようにして、
閭里の間で、野蛮人の言葉を
使用させないようにさせるべき

ここまで


自虐史観・反日的な思考の教授、研究者などの
一般的な書籍や教科書に触れると、
「朝鮮出兵」では、いわゆる義兵が
立ち上がり朝鮮半島全土で朝鮮人たちが抗日抵抗をしたと、
イメージを持たれることがあると思います


しかし、これは嘘であり、非常に偏った
一面的なモノの見かたであります

文禄の役で押さえておきたいポイントは、
開戦から休戦協定が結ばれるまでの約1年間、
最初から最後まで、反乱を起こすこともなく、
秀吉軍の統治下で暮らしていた朝鮮人も
多かったことです


両班、貴族、豪族、名士、商人、僧侶、良民、
白丁賤民、朝鮮軍の武将、軍官、兵士といった多くの
階層の朝鮮人たちが、秀吉軍の統治下に入り、
自発的に日本人となった者、日本国へ渡った者、
秀吉軍の民衆慰撫活動に参加した者、軍に加わった者、
朝鮮国内で普通に日本の領民として過していた者、
スパイ・偵察員として李氏朝鮮勢力圏で活動した者、
秀吉軍将兵と恋愛関係になった朝鮮人女性たちなど、
多岐にわたります

秀吉軍と親しんだ朝鮮人たちの様子は、
過去記事にありますので、興味がある方は見てみてください


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