明国の提督、李如松は43500人の明軍を率い
1592年12月末に朝鮮国に入ります。
1593年1月に、明軍と朝鮮軍(8000~17000人)は
小西行長の居城の平壌を攻撃し、苦戦しながらも、
小西軍を場外に追い出すことに成功しました
ここで明軍は3000余の死傷者をだします
また平壌攻撃前に病弱落伍兵300人と
軍馬1000頭を失っていたので、こ
の時点で3300余の損耗でした

李如松は、この勢いに乗って豊臣軍が
占拠している都漢城を奪回して、釜山まで追いやると
意気込み南下しますが、1月26日に碧蹄館で
秀吉軍と合戦になり、明軍は敗北してしまいます
李朝実録では明軍の損害は、
死傷500~1500人と記されています。
この敗北で、平壌戦と合わせて明軍の損害は
3700~4800人をだしていますが
まだ約4万人の兵を有していました
しかし、恒例と言いますか、時が経つにつれ
ボロが出てきます
3月04日 宋経略の発言 32000人
3月07日 李如松の発言 30000人
3月23日 宣祖王の発言 30000人に満たず
とあり、12500~14500人が失われていたことがわかります

明の複数の将も碧蹄の死者甚だしと発言し、
明の記録には橋(開城の南の川)を
渡った部隊は欲しい儘殺された記し、
朝鮮の官僚も、明軍の死傷は多いと頻繁に
記録に残していることから、
実態は相当数の損害を出したものと推測されます
明国の吏科給事、楊廷蘭からも、
平壌戦で得た首級の半数が朝鮮の民のものであることや、
碧蹄館では兵馬の半数を失ったにもかかわらず、
十分の一の損害だと偽りの報告を
李如松がしてきたことを指摘されています
李如松も敗戦に相当ショックを受けたようで、
1月28日に、碧蹄で勝ったと虚偽の報告を
朝鮮側に伝えますが、実態はすぐにバレてしまいます
敗戦により民心を失ってしまったと
発言した柳成龍らを怒鳴りつけたり、
朝鮮の左議政、尹斗壽の進軍の懇願に、
李如松は泣き出したり、日本軍は20万であり、
自分も病にかかったので交代してくださいと、
明本国に伝えるなど、精神状態が
不安定になっていたことが読み取れます
さらに、この時期にまだ咸鏡道に
駐屯していた加藤清正軍の圧迫を非常に
感じており、李氏朝鮮と同様に、
その対策にも頭を悩ませていました
また明軍襲来の報告を受け、各地の秀吉軍が
都の漢城に集結したことにより、
京幾道、江原道、忠清道で活発に軍事行動を
起こして朝鮮軍を敗退させるなど、
大いに勢を誇っていることも報告され、
これも李如松を恐れさせる理由になっていました
軍事的成功は覚束なくなったと悟り始めた、李如松らは、
小西行長や加藤清正に講和を求める使者を派遣します
碧蹄館戦後の明軍は、兵員と同時に軍馬も
1万4千頭以上が飢えや病気で死に、
明軍の傷病兵たちも道端に放置され、
食事や水も得られず風雨に晒され死者が相次いていました
戦果の方も平壌から蹄碧館の間に、
得た首級は僅か2000前後であり、
明将兵も凍傷にかかり指を落とす者が
続出するなど散々な状況でした
朝鮮側が明軍に兵糧の提供と輸送を
担当すると約束していましたが、
李氏朝鮮の長年の腐敗政治がたたり、
民衆の離散、役人の怠惰、民衆への刑罰、
人手不足などが重なって、兵糧収集や運搬が停滞し、
明軍へ補給が行かず、明兵は痩せ細っていく有様でした
これに加え、明の官僚が、人間関係の悪さから食料を
ワザと輸送しなかったり、届いたとしても明兵たちが、
食料を横流しをして売買するなども、
飢えに拍車をかけていました
平壌攻撃で右軍1万余を指揮した明将張世爵も
李如松に、しきりに明本国に撤兵を勧めていました
また北方出身と南方出身の将兵も仲が悪く、
互いにいがみ合い、諸将の間でも讒言が
頻繁に行われていました
南人であった宋経略(宋應昌)も、
李如松が明本国に要請した軍馬1000頭を、
遼東地方で奪い取ったり、
前年から小西行長と交渉に当たっていた沈遊撃(惟敬)も、
李如松や宋経略、朝鮮側にも交渉事を秘密にしたりと、
統一はとれていませんでした
明は後続として、劉綎ら陳璘らの南兵を送り込みますが、
脱走兵も多く、遼東では遼兵4000~5000人が
逃亡していると記されています
沈遊撃らが小西行長や加藤清正と、
和平交渉をしていると聞いた、
李如松の軍中では、諸将たちの中で和平の件を聞いて
喜んでいない者はいないと宣祖実録に記されています
↓平壌戦関係の記事です、宜しければ参考に。
奮戦・小西行長軍 文禄・慶長の役の偏り10
平壌戦の後
文禄二年 1593 平壌攻防戦
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1592年12月末に朝鮮国に入ります。
1593年1月に、明軍と朝鮮軍(8000~17000人)は
小西行長の居城の平壌を攻撃し、苦戦しながらも、
小西軍を場外に追い出すことに成功しました
ここで明軍は3000余の死傷者をだします
また平壌攻撃前に病弱落伍兵300人と
軍馬1000頭を失っていたので、こ
の時点で3300余の損耗でした

李如松は、この勢いに乗って豊臣軍が
占拠している都漢城を奪回して、釜山まで追いやると
意気込み南下しますが、1月26日に碧蹄館で
秀吉軍と合戦になり、明軍は敗北してしまいます
李朝実録では明軍の損害は、
死傷500~1500人と記されています。
この敗北で、平壌戦と合わせて明軍の損害は
3700~4800人をだしていますが
まだ約4万人の兵を有していました
しかし、恒例と言いますか、時が経つにつれ
ボロが出てきます
3月04日 宋経略の発言 32000人
3月07日 李如松の発言 30000人
3月23日 宣祖王の発言 30000人に満たず
とあり、12500~14500人が失われていたことがわかります

明の複数の将も碧蹄の死者甚だしと発言し、
明の記録には橋(開城の南の川)を
渡った部隊は欲しい儘殺された記し、
朝鮮の官僚も、明軍の死傷は多いと頻繁に
記録に残していることから、
実態は相当数の損害を出したものと推測されます
明国の吏科給事、楊廷蘭からも、
平壌戦で得た首級の半数が朝鮮の民のものであることや、
碧蹄館では兵馬の半数を失ったにもかかわらず、
十分の一の損害だと偽りの報告を
李如松がしてきたことを指摘されています
李如松も敗戦に相当ショックを受けたようで、
1月28日に、碧蹄で勝ったと虚偽の報告を
朝鮮側に伝えますが、実態はすぐにバレてしまいます
敗戦により民心を失ってしまったと
発言した柳成龍らを怒鳴りつけたり、
朝鮮の左議政、尹斗壽の進軍の懇願に、
李如松は泣き出したり、日本軍は20万であり、
自分も病にかかったので交代してくださいと、
明本国に伝えるなど、精神状態が
不安定になっていたことが読み取れます
さらに、この時期にまだ咸鏡道に
駐屯していた加藤清正軍の圧迫を非常に
感じており、李氏朝鮮と同様に、
その対策にも頭を悩ませていました
また明軍襲来の報告を受け、各地の秀吉軍が
都の漢城に集結したことにより、
京幾道、江原道、忠清道で活発に軍事行動を
起こして朝鮮軍を敗退させるなど、
大いに勢を誇っていることも報告され、
これも李如松を恐れさせる理由になっていました
軍事的成功は覚束なくなったと悟り始めた、李如松らは、
小西行長や加藤清正に講和を求める使者を派遣します
碧蹄館戦後の明軍は、兵員と同時に軍馬も
1万4千頭以上が飢えや病気で死に、
明軍の傷病兵たちも道端に放置され、
食事や水も得られず風雨に晒され死者が相次いていました
戦果の方も平壌から蹄碧館の間に、
得た首級は僅か2000前後であり、
明将兵も凍傷にかかり指を落とす者が
続出するなど散々な状況でした
朝鮮側が明軍に兵糧の提供と輸送を
担当すると約束していましたが、
李氏朝鮮の長年の腐敗政治がたたり、
民衆の離散、役人の怠惰、民衆への刑罰、
人手不足などが重なって、兵糧収集や運搬が停滞し、
明軍へ補給が行かず、明兵は痩せ細っていく有様でした
これに加え、明の官僚が、人間関係の悪さから食料を
ワザと輸送しなかったり、届いたとしても明兵たちが、
食料を横流しをして売買するなども、
飢えに拍車をかけていました
平壌攻撃で右軍1万余を指揮した明将張世爵も
李如松に、しきりに明本国に撤兵を勧めていました
また北方出身と南方出身の将兵も仲が悪く、
互いにいがみ合い、諸将の間でも讒言が
頻繁に行われていました
南人であった宋経略(宋應昌)も、
李如松が明本国に要請した軍馬1000頭を、
遼東地方で奪い取ったり、
前年から小西行長と交渉に当たっていた沈遊撃(惟敬)も、
李如松や宋経略、朝鮮側にも交渉事を秘密にしたりと、
統一はとれていませんでした
明は後続として、劉綎ら陳璘らの南兵を送り込みますが、
脱走兵も多く、遼東では遼兵4000~5000人が
逃亡していると記されています
沈遊撃らが小西行長や加藤清正と、
和平交渉をしていると聞いた、
李如松の軍中では、諸将たちの中で和平の件を聞いて
喜んでいない者はいないと宣祖実録に記されています
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平壌戦の後
文禄二年 1593 平壌攻防戦
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