文禄・慶長の役とは関係ないですが
非常に興味深い歴史をご紹介します

寛永21年 (この年、正保に改元 西暦1645年)
日本人58名が遭難して
北方民族の女真族の土地、満州に漂着します

そこで彼らは、勃興したばかりの女真族の清帝国に
保護され、遭難から24ヶ月して大坂に帰り着きます



逗留中の間、その国の制度、風俗、女真人や
明人(中国人)の気質を見聞するという貴重な
体験をしています


女真人(清・後金)の官僚が遭難者たちに語った言葉

女真人の日本人の評価
御奉行衆、日本の者共に、まねと言葉にて御申候は、
日本人は義理もかたく、武邊も強く、慈悲も有之よし傳聞候、
韃靼國も似候よしに被仰候、夫ゆへ日本人を
御馳走被成との御申様に候


遭難者(日本人)が見た女真人
御法度萬事の作法、ことの外明らかに正しく見へ申候、
上下共に慈悲深く、正直にて候、偽申事一切無御座候、
金銀取ちらし置候ても、盗取様子無之候、
如何にも慇懃に御座候

主と下人との作法、親と子の如くに見へ申候、
召仕候者をいたはり候事、子のごとくに仕候

又主をおもひ候事、親のごとくに仕候ゆへ、
上下共に親しく見へ申候、
大名衆の義は不存候拾人廿人程召仕候人、
又其以下は此通りの様子に見へ申候、
下人何ほど召仕候共、のこらず女房を為持、夫婦共に扶持仕候


遭難者(日本人)が見た、明人(中国人)の評価
北京人の心は、韃靼人とは違ひ、盗人も御座候、偽りも申候、
慈悲も無之かと見え申候、去りながら、唯今は韃靼の王、
北京へ御入御座候に付、韃靼人多く居申候、
御法度萬事韃靼のごとく仰付候て人の心は能成候はんと、
韃靼人申候


文を見れば明らかですが、もう少し簡単に記したいと思います

女真人は、日本人を【義理堅く、武芸も強く、
慈悲心もあると伝え聞いている、
女真人に似ているから歓待しているのだ】と言っています

日本人たちも女真人を見て、法律賞罰が正しく行われていて、
人々も慈悲深く、正直、嘘を言わず、窃盗もせず、
君臣の間も親子のごとくであり、(下男にも)嫁も必ずとらせ、
夫婦共に扶持を与かっている


明人・中国人の評価は、
女真人とは違い、盗人もおり、偽りもいい、
慈悲の心もないと評しています


日本人も女真人も尚武の気風の国柄なので、
相容れるところがあったのでしょう
明人に関しては、相変わらずというところでしょうか

小西行長も文禄・慶長の役の時に、明人の権謀術策により、
翻弄されているところを見れば、さもありなん と言ったところでしょう


私の個人的見聞ですが、海外青年協力隊で、
モンゴルに数年間派遣されていた人に色々と
お話を伺ったことがあるのですが、
その中で印象に残っている話があります


それは、全体的にモンゴルの人たちは裏表がなく正直であり、
ちょっとしたずるいことに関しても、
モンゴル人は許せないらしく、そんなずるの場面に出くわすと
【中国人だ】【中国人みたいだ】とよく言っていたようです

日本の宗教界に出口王仁三郎という
破天荒な怪人がいるのですが、
彼も、大正13年に蒙古入りしたときの証言に、
蒙古人たちの素朴さ、直向きさを激賞しています
北方民族は朴訥としているのでしょう

しかし、残念ながら、そんな清帝国も中華統治が
長く続くと腐敗していきます

ただ興味深いのは、清の皇帝はいずれも
賢明な人物がばかりで、漢人王朝で必ず登場する
【暗愚な皇帝】が登場しなかったことでしょう


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女真族の八旗軍
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下は遭難の経緯

寛永21年 5月に ( 1645年 )
越前國三國浦新保村の竹内藤左衛門、
國田兵右衛門ら58名が3艘の船にて、
松前に商売のために向かおうとしたところ、
大風に遭い、満州へ漂着します

船を直しているところ、現地民と遭遇して、
彼らとやり取りをします

そこで現地の特産品の人参の事を知り、現地民の案内で、
それを取に行くときに、1000余の清軍に急襲されます

竹内らは大風に遭った際、刀脇差を龍神に捧げて
祈祷するために海中に投じていたため、
丸腰であり為す術もなく射殺されていきました

船も焼かれ、合計43名が殺害され、
15名が囚われてしまいした

この攻撃は清軍は彼らを盗人と誤認したためでした
生き残った者たちは、自分たちは遭難者であると弁明すると、
女真人も合点し、彼らに形式的な刑罰を与えた後は、
15名を丁重にもてなします

まず満州の都に連れていかれ、次いで女真族が
制圧している中原の北京へと護送されていき、
10月に入京します

彼らは1年間、北京に滞在し、宰相のドルゴンにも
面会するなどしています

正保2年5月に日本への帰国の願いも聞き入れられ、
同年12月、帰国のために朝鮮国に入ります

正保3年1月 都の漢城を出立し、半島南部の東莱にて
対馬の役人と合流し対馬に渡り、
正保3年6月 ( 1647年 )に大坂に辿りつきます


韃靼漂流記おまけ

國田兵右衛門たちの女真語講座

1
あも

2
ぢよう

3
あで

4
とい

5
すちゃ

6
にうこ

7
なだ

8
ちやご

9
うよ

10
ちよえ


ほた

食べる
せぶ


しゆし

さいの類
やれ

お椀家具
もろ


もほく


あつけ

味噌
みしよ

豆腐
たうふ

胡椒
ふうてう


からし
けいも


ばさい


きうさい


もうれ

馬に乗れ
もうれやろ

馬を駆けさせる
ほぐせ


たとろ


ゑた


てうこ


いんたほう


きやほう


やあま


はらせ

小娘
さるはせ

大名
はあばぞ


ふり


によろ

弓を射る
がふた

煙管
たは

煙草
たばこ


とあ


はむつか


はるこ

念仏の唱
なむおみとぷ


はほう


へう


ちよあん


うばい

相撲をとること
しやはな

御馳走を受けた時の礼の言葉
ばんはね


ほつ
貴人への御礼言うとき
よつこう

今日
いのき

明日
ちより

明後日
ちやられ


しゆんと


ひやあ

日月の出
どきとめ

月の入
どつかめ


もとりむつか


やさ


おほろ


あんか


しや


かう


とろ


ほろこ

通訳
とくそう


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