前回、平壌攻防のことを記事にしたのですが、
戦闘場面は省略したので、
今回は李朝実録にある平壌攻防の記事にします

この戦いは本格的な明軍介入の初めての大規模な
戦いであり、騙し討ちでありながらもこれも初めて
日本軍の1軍を破ったものでありながら、
一般書籍では詳細は殆ど記されていない戦いです

壬辰12月25日(1592) 明軍、鴨緑江渡河

1月5日

明軍は順安県に駐屯し、
副摠兵査大受を小西陣営に派遣し、
斧山院で会見することを約したいと伝える

平壌の小西行長は、配下武将の
平後寬(竹内吉兵衛)を派遣

明軍は彼ら捕えようとするが、夜に数人が脱出し、
追跡して殺害した
平後寬は囚われた


6日暁

明軍 平壌城に到着
小西軍は牧丹峯に1000人余(松浦法印)

普通門には5000余、城の上に並び、
柵を構え、盾を擁し剣を揚げる

李如松は牧丹峯に部隊を登らせ、
城内を高所から攻撃しようとするも、
牧丹峯の小西軍が鉄砲を撃ってきたので明軍は退却した
城内からも小西軍が出撃し追撃してきたので、
明軍は鉄盾を数十を辺りに放棄しながら逃げた

小西軍が明軍の遺棄物資を回収し始めたので、
明軍は反撃しようと、逃走中の部隊を
反転させたら小西軍は城内に戻った

この日の夜に小西軍数百が夜襲を仕掛けてきた
明軍は旗や明かりを消し、柵から火矢を放ち、
周囲が日中のように明るくなった

小西軍は城に遁れた

7日

明軍の3軍をもって普通門を攻撃。
偽りの退却をすると小西軍は出撃してきたので、
部隊を反転させて戦闘になった

30余の首を取り、門口まで攻め込んだ


8日早朝

各部隊の持ち分を決める。
牧丹峯・遊撃将軍吳惟忠 原任副摠兵査大受
七星門・中軍楊元 右協都督張世爵
普通門・左協都督李如栢 參將李芳春
舍毬門・副摠兵祖承勳 遊擊尙志

與本國兵使李鎰, 防禦使金應瑞等

諸軍は整然と前進する。

日本軍は多くの五色旗幟を張り、長槍太刀を束ね、
刃を外に向け防禦の計とす

李如松は100騎を率い指揮する
明軍、大砲と火矢を乱射、各部隊は城を攻撃

小西軍は鉄砲を乱射、熱湯、大石で応戦
明軍、やや後退

李如松、怯えて逃げた者を斬り、呼ばわる
「一番に城を登ったものは、銀五千両を賞す」

呉惟忠は胸に弾を受けたが力強く指揮する
駱尚志は長戟背負い毬門城を登っていたが、
敵が投げた大石で足を負傷したが、
尚志はそれでも登り続けた

明の各部隊、これを見て太鼓を激しく鳴らす、
小西軍は敢えて抵抗しなかった

浙江の兵が一番乗りし、小西軍の旗を抜き、
明軍の旗を立てた

張世爵等が攻める七星門は敵が固く守り、
突破できなかった
李如松は砲二門にて門を砲撃するように命じ、
門を破壊した
李は軍を整え侵入した

明の各部隊は騎馬歩兵は先を争って侵入し、四面切り殺す

小西軍の勢いは衰え、各営に入る
明軍、恣に焼き殺し、その臭いは十余里と聞く

小西行長は練光亭の陣地に逃げる
李如松は柴草を運ばせ、四面に積み放火す

七星門と普通門の周辺にある複数の窟が堅固であり、
すぐに落とすことはできない

李如松は各部隊に攻めるように指示をだしたが、
敵は鉄砲を放ち、明軍の死体が積み重なる
李如松の馬にも弾が当たった

明軍の諸将は、少し後退し兵を休ませるべきと李に請うた

時、李如松は敵の陣地は抜き難く、
各部隊は飢えて疲弊しているので部隊を営に還らせた

李は張大膳を使者として、小西陣営に送り、
【明軍の兵力で、一蹴することは簡単だが、
皆殺しにするのは忍びないので、
城から退去するなら、路を開けておく】

小西行長は返答し、
【退軍を願うので道を開けておいてほしい】

李如松は許可し、夜半に小西軍は大同江を渡り脱出

中和と黄州の日本軍(大友吉統)は
平壌の砲声を聞くと逃走した

黄州の判官鄭曄は行長軍の後方を絶ち90余級を斬った
敵は飢えており人家や寺に入った者を三十余斬った
この日の明軍の戦果、明軍の戦果は1285首級捕虜2人
捕虜浙江人張大膳倭器455件 馬2985匹 
救出した朝鮮人1225人

9日、李如松は諸軍を率い入場
戦死した将卒のために痛哭

おわり


平壌攻防の参加兵力
小西行長軍15000名
明軍43500
朝鮮軍8000-10000

明軍は各種門を突破するものの、
練光亭、七星門、普通門周辺に構築された防御陣地は
堅固であり、相当数の死傷者を出し、
落すことはできず、城外に引き上げています

この小西軍の城内の奮闘ぶりは、
本戦闘に参加した日本の武将の日記や
フロイスの日本史からも確認できます

平壌戦の明軍死傷者3000余
武将の負傷者・呉惟忠
駱尚志 李芳春 千総(官品名 無名) 4名

平壌戦の前に、明軍は300人の落伍病弱兵や
軍馬1000頭を失っていたので、
記録から判明してる明軍の喪失は合計3300余人
軍馬1000頭。

朝鮮軍の損害は不明(朝鮮軍兵力8000-10000人)
平壌続志では、6日、大同門から含毬門攻略部隊の背後に
回り朝鮮軍に10のうち7-8の損害を与えたとあります

面白いのは、明史では含毬門・正陽門には
明軍と共に朝鮮軍が担当で、
日本軍は従来の経験から朝鮮軍を易しと見ていたので、
この方面にはあまり兵力を配置していませんでした

明軍の祖承訓等は朝鮮兵に偽装して隠れていて、
8日の戦闘が始まってしばらくしてから明軍の鎧を着用すると
日本軍は大いに驚き、急ぎ兵力を分けて
防戦に当たったとあります

明軍や李氏朝鮮は、平壌戦時の明軍や
朝鮮軍の編成や兵力を詳しく残しているのですが、
残念ながら、小西行長軍のハッキリとした兵力は不明

出征時18700
日本史15000 (フロイス)

平壌戦時
朝鮮征伐記15000
秀吉譜等15000

朝鮮側の宣祖実録では、
平壌の小西軍の情報が度々報告されていますが、
3000-20000と幅広く安定していません

柳成龍の記録では、小西行長軍は単独数千人で
平壌を占領したとあります

そして同記録では小西行長軍は進軍した土地に
100~200人の兵を点々と残していったとあり、
そのために兵員が減っていたことがわかります

平壌奪回前の報告では小西軍は
5000-6000と報告していますが、
これは意外と当たっているかもしれません

なぜなら、当時の戦国時代の編成は、
10000人の軍勢がいたとすると、
40%~60%は非戦闘員になります
小西軍を15000で見た場合、
戦闘員は6000~9000。

実際、李氏朝鮮も秀吉軍の編成に
ついて報告している記事があり、
例えば秀吉軍が1000いたとすると半分ほどは
武器を持っていないと、興味深く観察しています

小西行長軍は、天正20年4月から
文禄2年1月までの間、釜山、東莱、梁山城付近の遭遇戦、
尚州、忠州、臨津、平壌夜戦、第一次平壌防衛、
ほなふさん攻め、第二次平壌防衛等々、
多くの戦いを経験しており、
またフロイス日本史には、遠征軍の死者の内、
戦死者は僅かであり、殆どは病死であったとあるので、
平壌戦ではどれくらいの兵力があったのか気になります

明の武将の劉綎は平壌戦時、小西行長軍は1万人にも満たず、
明軍は1000の首級しかとれなかったと述懐しています

文禄2年4月(1593)に明側が人質二人を差し出して、
日本に送って和を乞うという形で、協定が結ばれたので、
秀吉軍は補給も兼ねて釜山周辺に集結します

文禄2年5月時の小西軍の兵力は7415名


さて、ここで小西軍の戦死者ですが、
8日の明軍の戦果1285
朝鮮軍の落伍兵等の追跡120級

宣祖26年 35卷 2月10日の記録には、
明軍の戦果が追加される記事があります。
明軍は脱出する小西軍の通路に事前に伏兵を
置き退却する小西軍を攻撃し、
359の首と3名の捕虜を得ています
これを合わせると小西軍の戦死者は1764名


ここで疑惑がでてきます
当時の朝鮮の官僚の柳成龍が記した懲毖録と、
従軍した小西行長軍将兵から聞き取りして
記したフロイスの日本史には、
この平壌攻防のことが記載されているのですが、
共に明軍は小西行長軍を追跡することはなかったと
書かれていることです

9日前の、宣祖26年 34卷 1月11日の戦闘報告には、
伏兵の事は記されておらず、逆に1285の首の内、
半数は朝鮮人の民の者であり、
1万余の朝鮮の民が焼死したり溺死したという内容が、
明の皇帝に送る報告書にあったと記されています
( 東都御史周維韓と吏科給事中楊廷蘭等 )

明国はこの真偽を調査するとしますが、
結局のところ、この件はウヤムヤにされてしまい、
とってつけたように1月20日の359級の首の話題が
盛り込まれます


偽首問題が、この一件だけでしたら、
風聞や虚偽であると明軍の弁護もできますが、
文禄慶長の役を通じて、朝鮮民衆は明軍や朝鮮軍、義兵、
一般の朝鮮人にすら襲い掛かられ略奪され、
首を取られて日本人の首とされることが多かったので、
これは事実でしょうね


李氏朝鮮としては明国の属国であり、
自力で秀吉軍を撃退することも叶わず、
何度も明国に救援を請う使者を派遣し、
そして明軍の力で平壌を奪回した以上、
明軍に不正があっても何も言えないのは当然のことでした

実際に、朝鮮の各種記録には、天朝の天将たちや天兵の横暴に
なにも言えない李氏朝鮮の姿が随所に記録されています


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明人を信用して欺かれ、2度も命を落としそうになり、
交渉期間中、軍事境界線の協定が決まった時は
それを忠実に守り、反面、平壌攻防の夜半の軍議では、
【敵に背を向けない関白秀吉を範とし、
そして敗戦の責任から関白の信任を
失うよりは誇りをもって戦死するほうがよい】
と、男らしい矜持も持ち合わせている、
そんな小西摂州守行長が好きです


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おまけ 李氏朝鮮用語集
天朝=明朝
天将=明将
天兵=明兵



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