本日、フッと感じたことを記事にします。
太閤秀吉公は明国遠征のために朝鮮国と交渉した後に、
軍勢を派遣し、両国の交渉の不備から朝鮮半島で
戦闘状態になります
世に言う文禄の役です

太閤秀吉公は明国遠征のために朝鮮国と交渉した後に、
軍勢を派遣し、両国の交渉の不備から朝鮮半島で
戦闘状態になります
世に言う文禄の役です

この秀吉の遠征は大明国や天竺まで
目指すものという壮大ものですが、
そのキッカケなった出来事は不明のため様々な説があります
その一つに天下を統一し、国内に大量の将兵がいるので、
その口減らしのためだという説です
そして悪い意味合いで使われることが多いです
しかし、これに疑問を感じました
文禄初期に、小西行長軍や大勢の朝鮮民衆が味方したことで、
破竹の勢いで朝鮮の首都の漢城に入場をはたします
秀吉は自らも朝鮮に渡航し、陣頭指揮をとることを
望みますが徳川家康や前田利家ら
に思いとどまるように説得されます。
これは朱印状やフロイスの書簡から確認できます
そして秀吉と血縁関係や近しい存在である加藤清正、
福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、宇喜(浮田)多直家、
黒田長政、小西行長らを派遣しています
太閤自らの出馬、豊臣家の骨幹を構成する配下たちの派遣から、
ただの口減らし対策とは思えないのですがどうでしょう
下は文禄時に動員した将兵数
肥前国名護屋在陣衆、すなわち渡海はせずに
後詰として名護屋城付近に駐屯した諸大名は、
武蔵大納言・徳川家康
加賀宰相・前田利家
越後宰相・上杉景勝
伊達侍従・伊達政宗
を含め40近い諸大名が集まっています
その数、七万三千六百二十人(73620人)
上杉や伊達は、のちに渡海しています。
また太閤秀吉の親衛隊の兵員数は以下のとおり。
御前備 ・五千七百三十人
御弓鉄砲衆・千七百五十五人
御馬廻衆 ・壱萬四千九百人
御後備衆 ・五千三百人
合二万七千六百八十五人 (27685人)
名護屋在陣勢は
十万一千三百五人 (10万1305人)
補足・10万2415人とも
朝鮮國先掛御勢
実際に渡海した兵員数は
小西摂津守・小西行長
加藤主計・加藤清正
黒田甲斐守・黒田長政
左衛門大夫・福島正則
備前宰相・宇喜多直家
左京大夫・浅野行長
ら率いる
二十万五千五百七十人(20万5570人)
合計
三十万七千九百八十五人(30万7985人)
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目指すものという壮大ものですが、
そのキッカケなった出来事は不明のため様々な説があります
その一つに天下を統一し、国内に大量の将兵がいるので、
その口減らしのためだという説です
そして悪い意味合いで使われることが多いです
しかし、これに疑問を感じました
文禄初期に、小西行長軍や大勢の朝鮮民衆が味方したことで、
破竹の勢いで朝鮮の首都の漢城に入場をはたします
秀吉は自らも朝鮮に渡航し、陣頭指揮をとることを
望みますが徳川家康や前田利家ら
に思いとどまるように説得されます。
これは朱印状やフロイスの書簡から確認できます
そして秀吉と血縁関係や近しい存在である加藤清正、
福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、宇喜(浮田)多直家、
黒田長政、小西行長らを派遣しています
太閤自らの出馬、豊臣家の骨幹を構成する配下たちの派遣から、
ただの口減らし対策とは思えないのですがどうでしょう
下は文禄時に動員した将兵数
肥前国名護屋在陣衆、すなわち渡海はせずに
後詰として名護屋城付近に駐屯した諸大名は、
武蔵大納言・徳川家康
加賀宰相・前田利家
越後宰相・上杉景勝
伊達侍従・伊達政宗
を含め40近い諸大名が集まっています
その数、七万三千六百二十人(73620人)
上杉や伊達は、のちに渡海しています。
また太閤秀吉の親衛隊の兵員数は以下のとおり。
御前備 ・五千七百三十人
御弓鉄砲衆・千七百五十五人
御馬廻衆 ・壱萬四千九百人
御後備衆 ・五千三百人
合二万七千六百八十五人 (27685人)
名護屋在陣勢は
十万一千三百五人 (10万1305人)
補足・10万2415人とも
朝鮮國先掛御勢
実際に渡海した兵員数は
小西摂津守・小西行長
加藤主計・加藤清正
黒田甲斐守・黒田長政
左衛門大夫・福島正則
備前宰相・宇喜多直家
左京大夫・浅野行長
ら率いる
二十万五千五百七十人(20万5570人)
合計
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