今回は文禄の役、慶長の役関係の話題。
番外編といったものでしょうか
番外編といったものでしょうか
天正二十年に (1592年)豊臣秀吉公が、海外へ遠征する部隊を
指揮するために肥前・名護屋城に向かいます
その途中に我が防府、すなわち周防に泊まっています
側近である太田牛一が記した 大かうさまくんきのうち
という記録には
四月十七日
すおふのうちてんじんのこう御とまり
秀吉公高麗陣道中之間之事 には
花岡ヨリ周防ノ国府へ七里 天神ノ国府ト伝
てんじんのこう とは国府のことです。
現在の国衙に豊太閤が来たのですね。
また松崎天満宮(防府天満宮)に遠征軍の戦利品である
唐太鼓も奉納しています
また文禄五年に (1596年 この年10月に慶長に改める)明の使者と
朝鮮の使者がやってきます
そこで朝鮮の使者の黄慎が残した記録に、
九月二十四日
天神浦に停泊す
記述はこれだけですが、どの辺に泊まったのか、
想像が膨らみますね
慶長三年 (1597) 夏に石田治部小輔(石田三成)が
筑前の代官に任命されたので、九州に下向します。
その際に、石田治部小輔一行も防府に泊まっています
同行した是斎重鑑の九州下向記に、
十二日に天神の府まで也 これ則周防の府中也
菅丞相左遷のいにしへ 舟よせ給し所とて大社あり
前なる海こそまりふの浦と伝 名所なりけれ
御宿の円楽坊重恵所望に 秋の色は茂る木ののいがき哉
まりふの浦は現在の防府市鞠生で、
江戸期以前までは、この辺まで海でした
江戸期に毛利藩によって、向島辺まで埋め立て事業が実行されて
今の地形になりました
七月、石田一行の帰路の記録にも
九月に天神の府までなり御やどもありし所也
帰りも宿をとったようですね。
他にも様々な歴史上の人物が、
周防長門の陸路・海路を往来しています。
とくに上関、中関、下関は古来から海の通行の要所であり、
歴史の表舞台でした。
豊太閤の画像

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指揮するために肥前・名護屋城に向かいます
その途中に我が防府、すなわち周防に泊まっています
側近である太田牛一が記した 大かうさまくんきのうち
という記録には
四月十七日
すおふのうちてんじんのこう御とまり
秀吉公高麗陣道中之間之事 には
花岡ヨリ周防ノ国府へ七里 天神ノ国府ト伝
てんじんのこう とは国府のことです。
現在の国衙に豊太閤が来たのですね。
また松崎天満宮(防府天満宮)に遠征軍の戦利品である
唐太鼓も奉納しています
また文禄五年に (1596年 この年10月に慶長に改める)明の使者と
朝鮮の使者がやってきます
そこで朝鮮の使者の黄慎が残した記録に、
九月二十四日
天神浦に停泊す
記述はこれだけですが、どの辺に泊まったのか、
想像が膨らみますね
慶長三年 (1597) 夏に石田治部小輔(石田三成)が
筑前の代官に任命されたので、九州に下向します。
その際に、石田治部小輔一行も防府に泊まっています
同行した是斎重鑑の九州下向記に、
十二日に天神の府まで也 これ則周防の府中也
菅丞相左遷のいにしへ 舟よせ給し所とて大社あり
前なる海こそまりふの浦と伝 名所なりけれ
御宿の円楽坊重恵所望に 秋の色は茂る木ののいがき哉
まりふの浦は現在の防府市鞠生で、
江戸期以前までは、この辺まで海でした
江戸期に毛利藩によって、向島辺まで埋め立て事業が実行されて
今の地形になりました
七月、石田一行の帰路の記録にも
九月に天神の府までなり御やどもありし所也
帰りも宿をとったようですね。
他にも様々な歴史上の人物が、
周防長門の陸路・海路を往来しています。
とくに上関、中関、下関は古来から海の通行の要所であり、
歴史の表舞台でした。
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