1593年1月7日に明・朝鮮連合軍は平壌を攻撃し、
3000人の損害をだしたものの城を奪回します

明軍指揮官李如松は、勢いに乗り漢城まで
落とすと豪語して南下します

しかし、1月27日に碧蹄で秀吉軍の反撃に遭い
敗北してしまいます

明軍の損害は6000人ともいわれ、朝鮮の記録では
半分を失ったとも残っています

碧蹄戦のあとに李如松は急に弱気になり、
敵は20万であり、自分は病にかかったので
誰かと交代してください
」と皇帝に奏し、
宋経略(応昌)には、和議のことを尋ねたりしています

これを機に明は、小西行長や加藤清正に
講和の使者を派遣するようになり、
多数の交渉が行われます

明軍の脅威が一旦無くなり、
現地軍は、日本から派遣された熊谷等に
兵糧の催促をしています

漢城周辺には兵糧は届いているものの、地形地物が険しく、
現在の人数では時間が掛かると訴えています 
朱印状 1593 3月3日

これを聞いた秀吉は援軍より兵糧を優先的に送ることにし、
部隊を策源地である釜山周辺に移動させ、
鉄砲の弾、火薬、魚類、味噌他を補充し
各拠点に1万石は置くように指示します

朱印状 1593 4月 12日
朱印状 1593 3月 14日

これがキリスト教宣教師フロイスの日本史にも
みられる釜山周辺に物が
溢れているとの記述と一致します

なぜ輸送が疎かになったのでしょうか

現在も朝鮮・対馬の海峡は荒波で有名ですが、
特に冬が一番危険であり、
フロイスの日本史に、文禄の遠征のときも、
冬になり船の航海が不能になったと記されています

フロイスの同僚のセスペデスが小西行長の要請で、
1593年12月に対馬から朝鮮に渡ろうとしますが、
海峡の荒れが原因で延期します

また船の沈没があったとも言われています


1592年~1593の冬の間に、半島に渡っている船も
航行できないので長崎県の肥前名護屋には船がろくに無く、
これでは大々的に援軍も兵糧も送れないので、
石田、大谷、増田の3奉行に半島の船を
名護屋に送るように指示しています


1592年に朝鮮にいた船乗りたちが寒さのために
凍死していることが
1593年4月12日の書状に記されており、
船乗りの数も不足していたこともあげられるでしょう

海峡が割と穏やかになる春以降には、
補給が再開されるとフロイス日本史に記されており、
実際に秀吉は、「文禄2年の間に、釜山に3回往復した
船乗りには、特別の褒美をとらせる
」と春に書状を
浅野長政に送っています

また8月6日の書には、暇ができた水夫たちを
半島から日本に呼び戻して、
休息をさせて来春に召しだすようにとも指示しています

冬の間の輸送は困難だったようです

しかし、慶尚道の密陽より北は李氏朝鮮に
対する反乱勢力・盗賊が溢れかえっており、
西は晋州城を陥落させているので、
秀吉軍の策源地周辺は安定しており、
釜山、西生浦、金海、熊川、巨済のラインで、
市場も賑わい朝鮮民衆と良好な関係が
築かれることになります

青い文字は過去記事です、面白い内容なので
クリックどうぞ
秀吉軍統治下の朝鮮人との交流

平壌攻防戦 小西行長軍の奮戦


最後に、朝鮮側の1593年明けの記録に、
朝鮮水軍や半島南部で偵察をしている者たちから報告があり、
春頃になると、日本から物資や新手の兵員を
積んだ船が次から次に、釜山および近隣に
上陸していると報告がなされ、
朝鮮は大いに恐怖することになりました


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