秀吉軍と協力して朝鮮軍を
攻撃した朝鮮の武官の話です

守門将は王都(漢城・ソウル)の警護をする、
重要な役職です
守門将、咸崇德(함숭덕)は秀吉軍が春川に
駐屯していたときに、秀吉軍に投降して、
せめてきた朝鮮軍を秀吉軍とともに、
朝鮮軍に矢を乱射して撃退した

(その際に)洪川の武官、許澈が戦死し、
後にその家族が亡骸を収容すると、
背中に崇德の名が刻まれた矢が刺さっていた。
(許澈が)敵に対して力戦したことは疑いがない

秀吉軍が去った後、自分(咸崇德)の罪が
隠し通せないと思ったので、
首級を持ち帰り功を得て、官職を賜った

この噂を聞いたものは皆、嘆息し、
この罪が裁かれるように請命した


宣祖27年 56卷 10月8日(壬子) 1594

そして彼は16ヶ月後の記録に再登場します

義禁府から申し上げます。

咸崇德は、敵につき、わが国の人間を殺した
その罪は重く釈放することは容易ではない
しかし、(許澈を)射殺したことは、確かな証拠もなく、
矢に名前が刻まれてただけなので、
疑獄の可能性もある

略 

武官であるので功労を立てて、
その罪科を償わせるべきである


宣祖29年 72卷 2月18日(乙卯) 1596


義禁府は犯罪人を取り調べる官庁ですが、
咸崇德は罪人として、扱われていることがわかります
敵についたことと朝鮮人を殺害したことが
罪になっているようです

殺人に関しては、前回に持っていったのが
朝鮮人の首だったのか、
許澈のことなのか、また別件で
殺人でも犯したのか気になるところです

当時、同じ朝鮮人から首をとられるという事件が
頻繁に起きていました

朝鮮人の国民性と同胞の首切り

許澈を射殺したことに関しては、
証拠不十分としているようです

記録からは、刑を軽くしようとしているのが
わかりますが、これは李氏朝鮮が
武官不足だったことも関係しているかもしれません


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