唐武陣 文禄・慶長の役、朝鮮出兵、壬辰倭乱 
反日左翼風では朝鮮侵略 といろいろ呼ばれ方がありますが、
この戦役に関して非常に偏ったことしか知られていないものです。
まずは、一致して秀吉軍と戦ったと持て囃される
義兵の側面を見てみたいと思います

宣祖実録巻36宣祖二十六年三月三十日己亥条 
によると

同福県監奇孝曽は、むやみに義兵将を自称し、
討賊の実績も無しに、
よぎる村々であますところなく暴飲暴食と横柄を働き、
百姓らのもてなしが気に食わぬと直ちに、
拷問にかけて虐げるばかりでなく勝手に官倉を開き軍器と
軍量をほしいままに持ち去る暴挙を平然としてのけたが
守令らは手出しもせずに見ぬふりをしていたので、
たまりかねた土民らは、奇孝曽の名を聞くだけで身の毛が
よだつ思いで逃げかくれた



竜蛇日記壬辰十二月初四日条 では、

所謂、義兵という者は、尽忠報国の誠を以て
討賊する者多けれど、義兵の名にかこつけて私利を
図る者もすくなくはなく、
進展を意のままにし統制も受けずに、
ただその郷里を守っているにすぎない



他にも、名前だけの義兵や、
虚偽の軍功を報告して手柄に与ろうとしたり、
盗賊や浪人が集まり義兵を称して富裕層や
百姓に襲いかかったり、李氏王朝から食料を貰うことが
目的で義兵を組んだり 
と弊害も多かったようです


実際、朝鮮の王・宣祖は、京畿道のなんの戦功もなく
食料を食いつぶすだけの、
ある義兵組織を兵站の軍役に就かせよと、
王命を出しています

命令に背いた義兵は群盗として
討伐の対象になりました。

立派に戦った義兵もいましたが、
こういう輩も少なくなかったのです



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