俗に言う朝鮮出兵の戦いで、朝鮮側で

三大大捷

と呼称されている勝利のひとつに、
幸州山の戦いがあります
幸州戦の記録で、当時に書かれたという意味で、
一番信頼できる朝鮮の乱中雑録1にはこうあります
(後代になるほど朝鮮側は潤色され派手になります)

矢や石を浴びせ、日本軍も三度進み三度引いたが、
火が回り城の柵も燃え落ち、矢も尽き、
日本軍に切り込まれて落城寸前だったとあり、白兵戦の最中に
全羅道の漕船40隻,が現れて声援を送ったので
日本軍は一旦引きます

そして丁傑の救援の2艘も現れて
矢の補充をしました

小西、大谷、黒田ら8将が 秀吉に
宛てた文禄2年2月18日発の書状でも、
「この丸に責入数百人切捨、本城土居付而相戦申候へば、
少少手負出来候間」とあり、

乱中雑録でも朝鮮側の戦果が130頸とあり、
現在言われているような派手な勝利?ではなく少なめであり、
そして日本側の数百人切捨と、乱中雑録1のあわや落城かという
双方の記録が一致しています

ちなみに宣祖実録では、3度進み3度引いた後の
日本軍の死者は数十人、負傷者は100人 とあります

朝鮮の記録だけで見ても、日本軍の死者は200人前後で、
負傷者は100人になります。
後年、明國と休戦期間中に朝鮮の武将が
倭将(侍)との雑談での中で、
幸州山城戦の日本側の死者は
多くて400名だったと聞いています。

乱中雑録では、日本軍が引いたところで
記録が終わっていますが、同書状では、
諸将が城に対して夜責めでもしようと協議している間に
17日に朝鮮軍が城を焼いて逃げたとあります

この書状は、権慄が城を焼いて放棄した翌日の18日に
発せられているので、日本軍は城の近くに
いたことがわかります

同時期の懲毖録も、この戦いについては
簡潔にしているだけであり、
特筆するとすれば、幸山城の指揮官であった権慄が
命令を出して、日本兵の死体をズタズタにして、
木に掛けたという箇所ですか


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