摂津守のブログ

過去に喜楽さんのサイト 別に摂津守の御内だす のブログを 持ってました 摂津守から記事を移動中

タグ:加藤清正

韓国・北朝鮮では秀吉軍と戦った朝鮮官軍以外の部隊、
いわゆる義兵が民族抵抗の象徴として語られることが多いです
続きを読む

明国の提督、李如松は43500人の明軍を率い
1592年12月末に朝鮮国に入ります。

1593年1月に、明軍と朝鮮軍(8000~17000人)は
小西行長の居城の平壌を攻撃し、苦戦しながらも、
小西軍を場外に追い出すことに成功しました

ここで明軍は3000余の死傷者をだします
また平壌攻撃前に病弱落伍兵300人と
軍馬1000頭を失っていたので、こ
の時点で3300余の損耗でした
o4j7ybzecc2gb8fkpjci-94db2adf

続きを読む

文禄2年(1593) 11月03日に、
加藤清正軍と明軍、朝鮮軍が合戦をしています

この時期は、小西行長と明の沈遊撃との間で
明側が2名の人質をだして日本に赴いて
和平を乞うという形で協定が結ばれたので、
日本軍は釜山周辺に集結していました

aa55b8zhhxbrtcytsvuf-c19420ec

続きを読む

慶長三年、切支丹武将、小西行長以下13000人余の
居城である順天城を攻め落とすために、
明軍の劉綎は5万以上の兵を率いて、
接近するものの順天は海辺に面し、
攻略が難しいと思案した劉挺は小西行長を
騙して誘き出して生け捕ろうと企みます

続きを読む

本日、フッと感じたことを記事にします。

太閤秀吉公は明国遠征のために朝鮮国と交渉した後に、
軍勢を派遣し、両国の交渉の不備から朝鮮半島で
戦闘状態になります

世に言う文禄の役です

fhesw2azsmky74vr65fy-18624b92

続きを読む

1593年1月7日に明・朝鮮連合軍は平壌を攻撃し、
3000人の損害をだしたものの城を奪回します

明軍指揮官李如松は、勢いに乗り漢城まで
落とすと豪語して南下します

しかし、1月27日に碧蹄で秀吉軍の反撃に遭い
敗北してしまいます

明軍の損害は6000人ともいわれ、朝鮮の記録では
半分を失ったとも残っています

続きを読む

このページのトップヘ