さて、本日の記事は昨日の記事の
続編です

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↓昨日の記事の続編です
釜山攻城戦 



4月13日

釜山陥落させた小西軍は、多大浦を攻め
僉使の尹興信を討ち取り、順調に作戦を進めていた

慶尙左水使の朴泓卽は城を棄て慶州へ逃亡

釜山城から北へ15キロほどの東萊府使の
宋象賢(송상현)は、日本軍が大挙して
押し寄せたと聞くと、周辺の邑兵を招集し
城を守ることにした

慶尚道左兵使の李珏も兵を率いて城に入ったが、
釜山の陥落を知ると怖気づき、
城外と城から敵を迎え討つと言い蘇山驛(駅)に
向かおうとした

宋象賢は籠城して迎え撃とうと進言したが、
李珏は聞かずに自分の牙兵20名を残して出て行った

象賢は釜山城が鉄砲の激しい攻撃によって
陥落したのを知ると、防御用に大量の板を作成した

また木偶人形を作り、衣服を着せ旗を
背負わせ剣を持たせ、城壁の間に並べておいた

東莱城は防衛の要であったので、
釜山城より5倍ほどの大きさがあり、
堀の深さや石垣の高さも、それ以上であった



4月14日
半陰半雨

卯の刻(5時~7時)に小西行長軍は 釜山を発した
辰の刻(7時~9時)に東莱に着く

この時、小西軍は水夫や荷物運びの人夫、
後続の黒田軍、大友の軍の一部も加わり、
3万人近くになっていた

だが貧困の者どもは略奪にかまけ
攻撃に加わろうとしなかった


巳の刻(9時~11時)

小西軍は東莱城を5重に包囲し、4方向から攻撃を開始し
長梯子を利用して石垣を登り始めた

城内は驚き震え、泣き叫びながら逃げ回る有様であった
象賢は南門に登って督戦した

小西軍は釜山戦のように攻め込み、
城内からは矢が雨のように降り、屋根瓦も落としてきた

一角では小西軍に負傷者が
多く出たので退却した

小西軍は、旗に高い棹を結びつけ、片手で持ち
梯子を登りながら、矢を射る朝鮮兵の目くらましにした

朝鮮軍の鉄砲防御用の板は役に立たなかった

小西軍は所々で城壁内に進入し、接近戦が起きたが、
大多数の者たちは手を合わせて命乞いを
したが切り捨てられた

助防将・洪允寬,梁山郡守・中衛将の趙英珪、
代将・宋鳳壽、敎授・盧蓋邦らも討取られた


蔚山郡守・左衛将の李彥諴らは
配下の将兵と共に投降した



東莱攻略


こうして城が陥落したので、
象賢は官服を鎧の上から羽織り、帯を締め
冠を被り椅子に座っていた


小西軍が迫ってきても、微動だにしなかった

その中の平調益(平成寬)は、先年に東萊に往来した際、
象賢に厚く歓待されたことがあり、
これに感じ入っていたので、
助けたいと申しでたが象賢はこれを断った


象賢は、京がある北の方向を伏し拝み、扇子に

孤城月暈 大鎭不救 君臣義重 父子恩輕(注:1)

の16文字を記し、宋家の家奴に、
父母に渡すようにと託した



小西軍兵らが集まり、府使と知るや捕らえようと試みたが、
彼らを蹴飛ばし罵倒した

”隣国の道理は
このようなものなのか?
私は汝らに背いていないのに、
汝らはなぜこの様なことをする?”

侮辱を受けたため兵らは大いに怒り、
引きずりだし斬った

象賢は、その間顔色を変えなかった

象賢が斬られる時、官奴と唱者が
泣き叫びながら駆け寄り、象賢の衣のすそを掴み、
喜んで同じ死に方をした

小西の兵らはこれを奇妙に想うのであった
(貴人の衣服には霊力があると迷信があった)

このとき妾の金蟾(注:2)が、象賢の様子を見に来たが、
捕虜になった


午の刻(11時~13時)前に、
城は陥落した

こうして小西軍は東莱城を陥し、
斬首3500 捕虜500の武勲を勝ち取ったのであった

象賢の最後を聞いた()平義智玄蘇らは、
嘆き惜しみ、東門の城外に象賢の大木の墓標を建てた(注:3)

武将たちは樓の上に登り
舞女、楽人らに命じ、酒を用意させ戦勝の会を開いた

夜は東莱城に駐屯し、翌15日も英気を養い
一部の兵を東莱東南の機張、左水営に派遣し
2城を陥落させるのであった。

城内の倉庫に山の様に貯めこまれていた
物は日本に送った
象賢のもう一人の妾も日本へ移送した(注:4)


4月16日
捕虜の妾の金蟾は三日間も
罵詈雑言が止まないのでついに斬られた。

金蟾の亡骸は象賢の墓標の隣に葬ってやった。

こうして小西軍は、朝鮮の都の漢城へむけて、
進軍を開始した



注:1
別の記録では、
父の宋福興に宛てた書に

孤城月暈 列鎭高枕 君臣義重 父子恩輕

と記したとある


注:2
金蟾 きんせん
朝鮮北道の咸鏡道・咸興出身の13歳の妓生


注:3
文禄3年のときに慶尚道兵使の金應瑞は
蔚山を統治している加藤清正と会見したが、
清正は、宋象賢の事に触れ、その死際を評し、
宋家の家人に遺体の返葬を許した

遺体が守られ国境を越えるときに東莱の民は
泣きながら見送った

光海君のときに忠清道の清州に
淸州忠烈祠が創建された


注:4
良女 李召文の娘 23歳前後

捕虜になった際、容易に屈しなかったので、
武士らは、彼女を別室を置き丁重に扱った

その後、豊臣秀吉のもとへ送られるが、あまりに号泣し
悲しむので、秀吉にいたく同情され、
文禄3年ごろに、朝鮮国へ送り返され都へ還った



古代・平安時代は、新羅の入寇
鎌倉時代は、元寇のモンゴル、高麗国の日本侵略、
室町時代は、李氏朝鮮国の応永の外冦(対馬侵略)など
隣国から攻撃を受け続けていた日本だけど、
戦国時代は日本側から打って出た時代


この戦いで日本の武士たちは朝鮮の
宗主国の明軍を何度も打ち破ったので、
その日本の勇名は女真族清帝国まで、
鳴り響くことになります

戦国日本のグローバリズムです


参考文献

征韓偉略(1831)
征西日記(天荊 1592)
吉野日記(吉野甚五左衛門 1593)
日本史  (1593)


李朝実録(朝鮮王朝公式記録 1616)
乱中雑録(趙慶男 1610)
懲毖録    (柳成竜 1647)
再造藩邦志(申炅 1693)


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