7月に入りましたね
大雨には注意したいものです
では本日はタイトルにあるように日本の記録と
李氏朝鮮の記録から、文禄の役の初戦である釜山城の
戦いを再現します
では歴史絵巻の世界へ↓↓
天正20年4月12日 1592年
長崎県の対馬から、秀吉軍の先陣が、
現韓国の慶尚道釜山へ出陣する
先鋒のメンバーは次の通り
小西攝津守 7000 小西行長
羽柴對馬侍従 5000 宗 義智
松浦刑部卿法印 3000 松浦鎮信
有馬修理大夫 2000 有馬晴信
大村新八郎 1000 大村嘉前
宇久大和守 700 五島純玄
信長の野望にも登場する大名たち
行長たちを補佐する僧侶も従軍
天荊
玄蘇
僧侶たちは漢文も読めるし知識人で
実際に、外交交渉で活躍しました
4月12日
辰の刻(07時-09時) 700余艘の兵船が長崎県対馬を出発
申の刻(15時-17時) に釜山浦に到着
釜山僉使(부산 첨사)の鄭撥(정발)は
絶影島で狩猟中だったが、
日本の大軍の進入を知ると狼狽し、
戦船に穴を開けて沈めて、
釜山城にはいり兵民600~20000人(注:1)と共に籠る
釜山城
城壁の高さ540㎝前後
人の背丈ほど高さの水が張られた二重の堀、
二重の乱杭・茂木、門に続く道路に大量の棘、
1000以上の小型砲と半弓で防備されていた
行長は釜山城に使者を派遣し投降を勧告する
鄭撥は使者を嘲笑いながらも、
時間を稼ぐために、国王へ報告するから待てと
偽りの返信をする
行長は鄭撥の虚偽を見抜き、信じたように振舞い、
翌日の攻撃のための準備をおこない、
船で夜を明かす
4月13日
行長は武器以外は携帯せずに、速やかに城を落として、
食料を確保する作戦をとる
卯の刻(5時-7時)に船を着け、そのまま釜山城へ進軍
辰の刻(7時-9時)に攻撃を開始する
城からは砲弾や矢が雨のごとくに降り注ぎ、
小西兵は矢にあたり討死するもの甚しかったが、(注:2)
怯まずに進み、鉄砲を集結させ射撃をしばらく続けた
盾も櫓も射ち尽くされ、朝鮮兵は頭も出すこともできず、
小西軍は前進し、堀や棘は小西軍が
用意した板によって渡られ、
城壁に取りつき登り始める
朝鮮兵は登ってくる日本兵に抵抗したが、
日本軍の威勢に押され、すぐに持ち場を離れて、
家の狭間や床の下に隠れた
こうして隠れていた者は見つかり命乞いを
したが、切り捨てられた
男も女も犬猫も軍神への捧げものとして切り捨て
首は3万になった(注:3)
進入した城内でも戦闘になり双方勇戦した
朝鮮軍は殆どが戦死し、捕虜になった兵は少数だった
鄭撥は弾に当たり戦死した
巳の刻(9時 10時 11時)ら戦闘は終了した
釜山城内には人家300(1500人~)ほどあり、
婦人や男女の子供は捕虜になった
注:1
切支丹大名に話を聞いたイエズス会の
宣教師の記録では、釜山の兵は600だったという
20000名の数字は、朝鮮征伐記によるものだが、
李氏朝鮮の制度では、平時にはありえない数字
戦国期に日本に布教しに来た宣教師は
日本の習俗を記しているが、その中に日本人は、
数字を一つ多めに記す習慣があとる記している
これに倣うと釜山の2000名になり、城に籠った住民や
近隣の朝鮮民までも含めた人数と見なせば合致する
注:2
死者が多いとは朝鮮の記録だが、
行長軍は釜山の近くの東莱城も攻略してるが、
釜山・東萊の両戦闘の被害を合わせて、
戦死・100近く
負傷・400名以上
とあるので、朝鮮の記録の誇張
注:3
3万の首は従軍した武士の日記の記述だが、
キリスト教の神父フロイスの記録にある
朝鮮婦人と子供たちの存在、
朝鮮のスパイの報告で釜山で早くも民衆統治が
始まってる報告の記録と矛盾がおきている
初戦でもあることから大袈裟に記したか、
ただのホラと推測される
専門家っぽく、ちょっとカッコつけて書いてみました(笑)
小西軍は、この後、順調に進軍して、朝鮮の大軍も撃破、
朝鮮の首都の漢陽(ソウル)にも一番乗りする大功を
成しています
以上、お粗末様でした~
参考文献
征韓偉略(1831)
征西日記(天荊 1592)
吉野日記(吉野甚五左衛門 1593)
日本史 (1593)
李朝実録(朝鮮王朝公式記録 1616)
乱中雑録(趙慶男 1610)
懲毖錄 (柳成竜 1647)

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