摂津守のブログ

過去に喜楽さんのサイト 別に摂津守の御内だす のブログを 持ってました 摂津守から記事を移動中

明国の提督、李如松は43500人の明軍を率い
1592年12月末に朝鮮国に入ります。

1593年1月に、明軍と朝鮮軍(8000~17000人)は
小西行長の居城の平壌を攻撃し、苦戦しながらも、
小西軍を場外に追い出すことに成功しました

ここで明軍は3000余の死傷者をだします
また平壌攻撃前に病弱落伍兵300人と
軍馬1000頭を失っていたので、こ
の時点で3300余の損耗でした
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文禄・慶長の役とは関係ないですが
非常に興味深い歴史をご紹介します

寛永21年 (この年、正保に改元 西暦1645年)
日本人58名が遭難して
北方民族の女真族の土地、満州に漂着します

そこで彼らは、勃興したばかりの女真族の清帝国に
保護され、遭難から24ヶ月して大坂に帰り着きます



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前回、平壌攻防のことを記事にしたのですが、
戦闘場面は省略したので、
今回は李朝実録にある平壌攻防の記事にします

この戦いは本格的な明軍介入の初めての大規模な
戦いであり、騙し討ちでありながらもこれも初めて
日本軍の1軍を破ったものでありながら、
一般書籍では詳細は殆ど記されていない戦いです

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慶長2年(1597)の10月3日の記録

明軍の頗貴遊擊 (頗賽)の発言


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天正20年(文禄元年 1592 )に豊臣軍は、
朝鮮各地の城を陥落させて、ついに首都、
漢城に無血入城します。

太閤秀吉は、自身も朝鮮へ渡海するべく、
在朝鮮の諸将に、首都漢城までの道のりに城を普請、
整備するように指示をだします

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文禄2年(1593) 11月03日に、
加藤清正軍と明軍、朝鮮軍が合戦をしています

この時期は、小西行長と明の沈遊撃との間で
明側が2名の人質をだして日本に赴いて
和平を乞うという形で協定が結ばれたので、
日本軍は釜山周辺に集結していました

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